AI に頼りすぎるのも如何なものか

日々雑感

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ツイッターを眺めていると、ここ数ヶ月でやたらと多くなったこの「@grok ファクトチェック」というやつ。

コミュニティノートが斜陽になってきたと思ったら、今度は AI に頼りすぎる人々が増えて自滅していってるような気がするんですよね。

たしかに AI はスペックもポテンシャルもあると思うんですよ。小沼もたまに文章の要約で利用することがあります(本ブログは使ってません)。とても便利だと思う。

でも、なんでもかんでも AI を使うことは ”自分で作り上げる能力” や ”自分で調べる能力” が低下していくだけなんではないかなと思います。

便利になればなるほど失うものもあり。これは AI に限った話ではなく、例えば冷凍食品、退職代行など、利用すればするほど色々と失うものが出てきますよね。

 

上に貼ったツイッターは、とある歴史的な建造物に初訪問した方が写真つきでツイートし、それがどこか解らない人が grok に聞いたもの。

AI は『指宿市役所の本庁舎っぽいです』と回答していますが、これ名護市役所(沖縄)だったという。「っぽいです」と間違えたとき用の記載をしていますが、こういうミスが結構多いんですよね。

 

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「おぬま治療院について教えて」と grok に聞いても

明確に「おぬま治療院」という名称の施設に関する情報は見つかりませんでした

と回答しちゃうくらいの低精度 AI なのにはガッカリ。

一度だけちゃんと回答してくれたんですが、今はネット上に当院は存在しないことになっています(笑) まあ、別にいいけど。

grok だけではなく ChatGPT などの AI を検索目的に頻繁に使う人たちは調べた気になってそれ以上の検索は面倒くさくなるみたいです。思考停止ですよね。

そして、AI の回答ってわりと「自分が求めていた回答」に近いものを吐き出す率が高く、調べた気も加速度的に高まっていきます。否定しないというのかな、だからエコーチェンバー効果も高くなって、より AI に心酔していくというか。自分の知識や思いは間違っていないという感覚が増幅されちゃうというか。

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そもそも AI だって ”誰かが作ったもの” であり、それは作者の意識が入り込んでいるということ。

仮に香害に敵意むき出しの人が AI を作れば、誰かがその AI を使って『オススメの柔軟剤』を調べたとき「まだそんな時代遅れなものを使おうとしているの?!」というような結果が吐き出されるかもしれない。

そんな結果が出れば「使えない AI 」となり、他の AI に頼るようになり、自分の求めている回答に出会えば「使える AI 」になっちゃう。結局、自分がどう感じるかにしか焦点が合っていないんですよね。

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AI を利用するとなとは言いません。小沼は今後も要約程度には利用するでしょうし。

ただ、(自分にとって都合のよい AI を)使い続けた結果、それは単純に自己肯定感だけを高めてくれる存在にしかならないのではないかと危惧してます。

AI が吐き出した結果だけを信じるということは、コロナ騒動時にメディアや権威を信じたのと同じことですよね。盲目的というか、無思考というか。

便利なものは紙一重だと思います。それをどう使い、距離感を間違えずにいられるか。

最近は知らないことに出会ったとき、調べることよりも脊髄反射のように AI に尋ねてしまう方が増えているなあと思い、書いてみました。

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